刑事の勘は本当にあるのか

古波津優育






第1章 はじめに

第2章 直感のメカニズム

 ・直感研究の今

第3章 直感を信じることは自分を信じること

  ・「直感」ではなく「直観」

  ・直観を使ってどんな答えが得られるの?

  ・どういう人が直観による答えを導き出しやすいか

  ・直観の力

・第4章 刑事の勘

  ・「刑事の勘」は本当にあるのか

  ・「刑事の勘」の使いどころ

第5章 おわりに

 

第1章 はじめに

 

 ドラマや漫画、様々なシーンで刑事たちが言う。「これは刑事の勘だ」。

しかし私たちが知っている「刑事の勘」の多くはフィクションの世界の台詞だ。科学捜査がスタンダードとなった現代において、刑事が勘を頼りに犯人を特定しているなどと聞くとバカげていると思うかもしれない。筆者は、アニメや漫画の中で「刑事の勘」という台詞を聞いたとき、バカげていると思って鼻で笑っていたタイプだ。しかし、とは言え本当に刑事の勘が現実に役立てられているのかどうか、刑事の方たちに聞いてみたいと思っていた。

 また、「直感」とは何なのか、ずっと気になっていた。なぜ人間の思考には直感という不確定要素が含まれているのか。なぜ人類は進化の中で直感を獲得したのか。直観は謎に満ちている。

 心理学ジャーナリストの佐々木正悟さん、直感を用いたカウンセリングを行っている蒼井みずきさん、元刑事の吉川祐二さんの3人に行ったインタビューを基に直感の謎に迫り、また刑事の勘の現実性を検証する。なお本記事では勘と直感を同一のものとみなし、特に区別は設けない。

第2章 直感のメカニズム

 直感に関する著書があり、心理学ジャーナリストの佐々木正悟(ささきしょうご)さんに話を聞いた。

画像①佐々木正悟の講師プロフィール | カドセミ (studywalker.jp)より引用



 佐々木さんは、『脳は直感している』のほかに『スピードハックス』『チームハックス』(日本実業出版社)や『イラスト図解 先送りせず「すぐやる人」になる100の方法』(KADOKAWA)『やめられなくなる、小さな習慣』(ソーテック)など数々のビジネス書を執筆している。大学卒業後に海外に留学しアメリカの大学で心理学を学んだ。

 

 佐々木正悟さんの著書 『脳は直感している』(2007)によると、私たちは日常的に直感に頼ってものごとを判断している。佐々木さんによると、仮に人の判断を論理的判断と直感による判断の2種類に分けた場合、なんとその8割が直感による判断であるというのだ。佐々木さんの分類では、人間の判断方法の種類は以下のような種類がある。

 

①本能による判断・・・生物(という種)が生まれつき持っている生得的行動パターン

     先天的・原始的・肉体的

②直感による判断・・・個体ごとの経験や学習に左右される総合的判断

     後天的、現場主義

③論理的判断:理詰め

     

*直感による判断には本能による判断も含まれる

 

 この分類によると、本能による判断は生物が生まれ持つ原始的で肉体的な力である。人間のみならず、すべての生物が生得的に持っているとされる。一方で直感はその個体ごとの経験や学習に左右されうる力である。つまり、人間と他の動物を比較した場合、人間の方がより脳が発達し、学習に優れている生物であるため、直感による判断能力は高いといえるそうだ。また、同じ生物種であるヒト同士でも、その個体による差があるのが直感的判断能力だ。例えば、生まれたばかりの赤子と40歳を迎えた大人を比較してみると、圧倒的に経験を積んだ40歳の大人のほうが直感能力が高いと考えられる。佐々木さんによると、直感は後天的かつ経験や学習により獲得しているものであるため、経験が豊富であればあるほど高い能力を持っているといえるのだ。

 そして本能とも直感とも異なるのが論理的判断、いわゆる「理詰め」である。たとえばものごとを判断するときに「AであるからBだ。」のように、結論を出すための順序だてがあったり、結論に至るまでの明確な筋道を示せる場合は論理的判断といえる。

  佐々木さんのお話を聞いて私の日常を振り返ってみた。すると、確かに直感的判断を下すことが多い。たとえば、カフェに行こうと思ったとき、なぜ今カフェなのかあまり論理的に考えたりせずに行ったりする。もちろん「勉強がしたいから」「おいしいコーヒーが飲みたいから」などと明確な理由に基づいてカフェに行く人もいるだろう。しかしではなぜ「その」カフェを選んだのかを明確に答えられるだろうか。多くの人は「なんとなく」そのカフェを選んだのではないだろうか。「家から近いから」や「安いから」と答える人もいるだろうが、その場合、カフェに行こうと思い立った時にはすでにどのカフェにしようかというイメージが頭の中に浮かんでいる。つまり、カフェに行こうかなと思った時点で行く店舗も決定しているのであり、それは論理的な思考を介していない。これまでの経験をもとにして最適なカフェを直感的に選んでいるのである。このように考えた場合、論理的判断を行う機会は圧倒的に少ないことが実感できた。

 

直感研究の今

 ずばり直感のメカニズムはどうなっているのか。佐々木さんによると、直感を扱う大脳生理学において、そのメカニズムはまだ解明されていないそうだ。大脳生理学は、動物や人間の行動を司る大脳の機能を研究する学問である。人間では意識、感情、記憶、注意といったさまざまな精神機能も研究の対象となっている。大脳生理学分野では脳という器官で直感がどう扱われているかの研究をしているそうだ。しかし直感の研究は、それを解明することによるメリットや有用性が少ないと考えられていることから、現段階では進んでいないというのだ。

 

「結局、研究って人がするものなんで、 そういう分野に興味を持つ人間がどのぐらいいるかということなんです。そして、研究というのは、それを研究してみると、何かにいい成果が出せそうだと示す必要があって、そういう意味ではあまり成果が出そうな感じがしないかなってところかもしれないですね。」

 

 直感はまだ開けていない研究領域なのだ。しかし直感が未開であるということは、直感に秘められた可能性が大きいということになる。「刑事の勘」も馬鹿にできないのではないか。そこで次に、実際に直感を用いてきたという人に話を聞いた。

 

第3章 直感を信じることは自分を信じること

蒼井みずきさんは現在、直感を活用する手法を用いたカウンセリングを行っている。

画像②取材中の蒼井みずきさん(筆者撮影)

 

「直感」ではなく「直観」

 蒼井さんは「直感」ではなく「直観」という言葉を用いる。蒼井さんは、「あくまで自身のイメージ」と前置きしつつ、「直感」と「直観」の使い分けを以下のように説明する。

 「直感」はより五感から受ける感覚に近いが、「直観」は肉体的な感覚である五感や現実から受ける感覚より深い場所、つまりは自分の心から発生するものと捉えており、「肉体や現実的な事よりは、もう少し深いところからやってくるイメージ」と語った。

 なお、本記事では、蒼井さんの話の場合には「直観」を使い、その他の箇所では「直感」を使う。

 

 蒼井さんは、この「直観」を活用することで悩みや疑問、あるいは自分について聞いて答えを出すワークを実施している。しかし蒼井さんがワークを受けに来た人の答えを出すのではない。あくまでも答えを出すのはその人自身なのである。蒼井さんは答えを導くための「お手伝い」をしているにすぎないのだという。

 

直観を使ってどんな答えが得られるの?

 直観を用いて答えを出す手順はシンプルだ。カウンセリングを受けに来た人は、いきなり直観による答えを出そうとするのではなく、まずは何も考えないように誘導される。そこで重要なのは、自分の価値観や自分の枠組みを手放すことだ。そこで蒼井さんがポンっと質問を出す。そうすることで、心の深い部分からくる直観を導きやすい。思考を手放し、何も考えていない状態を作り出すことで、自分が持っている思考のバイアスや癖が取り除かれ、より純粋な感覚として悩みや疑問に対する直観的な答えが出せるのだ。

 しかし直観による答えは必ずしも言語によって出力されるわけではないという。例えば、「今の私に必要なこと教えてください」という問いを設定したとする。そうすると、その答えが明確に言葉で現れる場合がある一方で、色や身体的な感覚として抽象的に現れる場合もあるのだ。その場合は更にその抽象的な答えを言葉で表現できるように変換する作業を行う。

 

「直観による答えは、体の感覚として出る人もいるし、ビジョンが見えたりとか何か象徴的なものが見えたりする人もいます。見えたら、またそれを言葉に変えていくようにしていくんですね。」

 

どういう人が直観による答えを導き出しやすいか

 人によっても直観が導く答えの形は変わるという。では、一体どのような人が直観による答えを導きだしやすいのか。

蒼井さんによると、悩んでいたり何か強く答えを求めている人は直観による答えが導きやすいそうだ。

 

「今までのパターンで、別に何も変化もなく同じパターンで暮らしていこうっていう人はあまり直観の力は必要ないじゃない。答えを求めてる人、悩んでる人とか、あるいは例えば新しく会社を作りたいとか、経営者の人とかは、やっぱり直観による答えが出しやすい。」

 

 直観は、感覚が鋭い人や特別な能力を持っている人にのみ正しく機能するのかと考えられる場合もあるが、蒼井さんによるとそうではない。直観的能力は誰もが皆持っているという。また、蒼井さん自身も特別な能力を持った人間ではないそうだ。

 

「元々みんな来てる(直観で受け取っている)けど、それを言葉に還元できてないだけだと思います。私たちは普段から体で、五感でいろんなものを受け取ってる。後はそれをできるだけ純粋なかたちで感覚に頼って答えを出します。」

 

 私たちは周囲の人間や環境から絶えず五感によって刺激を受けている。しかし普段それを意識することはないため、自分が周囲から受け、培ってきた感覚が自分の奥深くに眠っていることに気づいていない。

 

「だからこそ、何も考えないで、直観に頼ってポンって出てくるものが結構、本当の答えだったりします。」

 

直観の力

 蒼井さんは直観を活用してカウンセリングを行うなかで、多くのいわゆる普通の人(特別な能力を持っていない人)が直観を使って答えを出せることに驚いたという。それは私たちが直観を使える力を持っていることを意味する。では、なぜ私たちは直観よりも思考を重視しているのか。

 蒼井さんは、私たちが生きる21世紀の社会は科学が発達し、あらゆることがロジカルに説明されると話した。従って目に見えない感覚や直観はエビデンスが不足しているとして軽視されがちである。しかしそうして作りあげられたのが現代の思考偏重社会ではないだろうかと蒼井さんは考えている。何か発言すればその根拠を求められ、論理的に説明できなければその意見は無視される。だから、「好きだ」という言葉でしか表せない感覚を無理やりこじつけた言葉で説明しなければ納得してもらえないような事態が生まれる。「なぜそれが好きなのか」と聞かれて「いやそれが好きだからです」と応じる以外にどう答えろと言うのか。しかしその答えにさえ明確な論理が求められるのが現代なのだ。蒼井さんは、そのような社会の中にあって、自分の直観を信じることが大切だという。

 

「今ってみんな考えすぎて(思考偏重)、あんまり自分の感覚を信じないです。例えば学校の教育なんか全部そうだし。だから、私はもっと勘を信じたらいいと思う。ほんとに自分のやりたいこととか、好きなこととか。 その好きとか嫌いという感覚をもっと大事にしたら、もっと生きやすくなるんじゃないかな。」

 

 私たちは時に、「こうあるべきだ」「こうしたほうが将来の自分のためになる」など合理的な思考に偏って自分が本当にやりたいことを見失う。しかしそれは本当は自分がしたいことではない。だから後悔する。

 

「自分を見つめ、知れば知るほど、人生は広がっていくんだろうね。それを教えてくれるのが直観だと思います。どうあるべきかじゃなくて、自分がどう生きるか。何が好きで何が嫌いかっていうのには、 直観はよく答えてくれます。」

 

 直観を信じ、自分の感覚を信じて生きることは自分を信じて生きることだと、蒼井さんは付け加えた。

第4章 刑事の勘

 次に、刑事たちは実際に「刑事の勘」を捜査に役立てることはあるのかを元刑事の吉川祐二(よしかわゆうじ)さんに聞いた。

 

画像③吉川祐二 | 株式会社ノースプロダクション (north-pro.com)より引用

 

 吉川さんは元警視庁刑事で薬物や少年犯罪を担当していた。現在は、防犯コンサルタント、探偵、コメンテーターとして幅広く活躍している。

 

「刑事の勘」は本当にあるのか

 

 元刑事は実際に現場で刑事の勘を使って捜査をしていたのか。刑事にとって勘とはどのような意味を持つのか。吉川さんは、刑事の勘が実際に働きうると考える。

 

「刑事の勘、要するに刑事が犯人や不審者を見つけるような時に出る勘が、いわゆる刑事の勘って呼ばれてるものであって、勘というのは実は人それぞれみんな持ってるんですよね、 仕事上において。たとえば営業の人には営業の勘っていうのもあると思います。刑事の勘もその一種だと思っています。」

 

 吉川さんは「刑事の勘」があるとしつつ、それは刑事だけに固有の能力ではないと考える。誰しもがその人の職種や専門、興味を持つ分野において一定の勘を働かせることができるというのだ。つまり勘とは経験の蓄積から生まれるものであるということだ。これは前述の佐々木さんが定義した直感と同様の考え方であると言える。

そのうえで、吉川さんは刑事の勘を「違和感のようなもの」と表現する。

 

「警察官がすれ違いざまに、不審者を見つけて職務質問をした結果、その人物が実際に事件の犯人だったとか、そういうことがありますよね。そのときに警察官が必ず言うのが、『職質対象が目を伏せた』とか、『顔を逸らした』などです。それはね、それ以上に言いようがないということなんですよ。 何がおかしかったかというのは、本当にわずかな何か、自分が見た物や人がちょっといつもと違うなという感覚。何かおかしいなという違和感のようなもの。これが、 一言で言うと刑事の勘っていう形になると思いますね。」

 

 しかしその違和感を言葉で説明することは難しいのだという。

 

「それを例えばじゃあ今何がふつうと違ったんですか、って質問されたとしても答えられない。本来であれば答えられるはずじゃないですか。 でも別に僕は隠してる意味じゃなくて、うーんって答えが出てこない。そういうもんなんです。」

 

 しかしそれは例えば目つきや眼球の動き、歩き方など、その人の一挙手一投足から細かな動きに至るまで、あらゆる身体的動作から「違い」を感じ取っているのかもしれないと吉川さんは考えている。例えば歩き方だ。一般的に人は前を見て歩く。一方でこれから泥棒に入ろうとしている人間は、 キョロキョロと視線を動かす。周囲に人がいないか確認するためだ。このように、人が犯罪に走るとき、一定の動作・挙動がある。刑事は刑事でない人に比べ、これらの不審な動作に対する認識力が高いのだ。故に刑事は犯罪に敏感になり、犯罪に対する勘が働くのだ。それは刑事の経験を通して犯罪のパターンや犯人の挙動をインプットしていく中で高めることができ、故に刑事に固有の能力となるのだという。

 

吉川さんは言う。

 

「防犯の始まりは、 人間観察だというのが僕の考えなんです。人を観察することによって不審な点を見つけ出す。そうすることによって、その人が次にどんな行動に出るかというのが自ずと分かってくるわけですね。この人はもしかしたらこれから敵になるかもしれない、自分を攻めてくるかもしれない、自分を騙しにかかるかもしれない、といったことがわかってきます。 自然と観察をしていることによってわかってくるんですね。」

 

刑事の勘の使いどころ

薬物犯罪や少年犯罪を担当してきた吉川さんには、実際に刑事の勘が働いたと感じた瞬間がいくつもあったという。

 

「例えば、僕ともう一人の元薬物捜査員が一緒に歩いていました。そのとき前から歩いてきた人と我々二人がすれ違った後に我々は同時に顔を見合わせたんですよ。その時に出る言葉っていうのが『だよな』 というわけです。」

 

 薬物捜査官の勘が「前から歩いてきた人」を薬物関係者だと判断したのだ。

しかし実際に警官が行う職務質問においては、職務質問を受ける人のほとんどが、吉川さんいわく「善意のある人」であり普通の一般的な人であることも忘れてはならないという。

 

「 テレビのドキュメントや密着などで職質を受けた人が犯罪者だったケースが取り上げられるために、職務質問を受けた人がみんな犯罪者だって思うかもしれない。でも現実としてはほとんどの人が善意の人。」

 

 吉川さんは他にも少年係として少年犯罪にも携わっていた。その時にも刑事の勘は働いた。現在の「トー横」。吉川さんが警官だった時代は「ヤングスポット」と呼ばれていた歌舞伎町のその地域で少年補導を行っていた。少年補導は、深夜徘徊や喫煙、飲酒はもちろんだが、その少年少女が何かの被害者になっていないかを調べることも重要だ。吉川さんは例えば児童福祉法の被害者になっていないかということを考えながら補導していたそうだ。

そんなある晩のこと、吉川さんは一人の少女を見つけ、違和感を抱いた。

 

「あれ、あの子、何かちょっと違和感があるなと思って声をかけたんです。 色々と話を聞いてくうちに、 実はいわゆる売春の組織に入っていたということがわかりました」

 

このような形で隠れていた事件を見つけ出し、捜査の端緒となるケースもあるのだ。

 

「今の子たちってすごくおしゃれで発展しているから、例えば16歳の女の子がハイヒール履いても普通に歩けるとは思うんですね。ただ、昔は15歳、16歳の子がハイヒールを履いたりすると、歩き方に違和感があるんですよ。普通に歩けないんですね。タッタッタって歩けないんですよ、慣れないから。それも違和感になったりする。」

 

吉川さんは人間観察の大切さを訴える。

 

「僕、人間観察って言葉をよく使うんですけど。 人間観察というのは、色々な意味でこれからの本当にこの社会を乗り越えていく上で絶対必要なことだと思います。人を観察するっていうのは、人を窺うっていうのかな、なんか嫌な感じがしますよね。でも自分の頭の中にインプットして、この人は変だな、この人はどうなんだろうなっていうことを見るのは、これからほんとにいろんな意味でいろんなことに繋がっていきますよ」

 

第5章 おわりに

 本稿では「刑事の勘」が本当に有効活用されているのかという疑問から直感(直観)の謎を解き明かそうと試みた。実際に直感についての著書を持つ佐々木正悟さんや直観を用いたカウンセリングを行っている蒼井みずきさん、元刑事で薬物捜査や少年犯罪を担当した吉川祐二さんの3名に話を聞いた。

 佐々木正悟さんは直感とは個体ごとの経験や学習に左右される総合的判断能力のことであるとした。佐々木さんによると、仮に人の判断を論理的判断と直感による判断の2種類に分けた場合、なんとその8割が直感による判断であるそうだ。「直感で選んだ」などと聞くと、まるで運任せで判断したように感じてしまいがちだが、実際には私たちは日常の様々な場面で直感を使って判断を下しているのだということが分かった。

 蒼井さんは「直観」とは自分の奥深くから受け取るものだとした。そして、思考偏重で論理的な判断が求められる現代だからこそ、自分の心の深いところから来る「直観」を信じることが大切だと言った。それは自分を信じることにつながるのだ。

 吉川さんは、直感とは経験の蓄積であり、刑事の勘とはそこからくる違和感であるとした。吉川さんが刑事だったころ、刑事の勘を頼りに捜査の端緒をつかんだケースがくつもあった。薬物捜査や犯罪の現場で、刑事たちは一般の人と薬物使用者、犯罪者の微妙な違いを違和感として敏感に察知する能力を持っている。それは経験の中で培われてきた感覚的な判断能力だという。

 

 直感とはまだまだ未開の分野であり、そのメカニズムは解明されていない。従って「直感とはなにか」という問いに対する答えを筆者がこの場で出すことはできない。しかし、あえて答えるならば、直感とは3人の答えを総合したものであると言えるだろう。つまり、直感とは経験や学習に基づき、自分の中から生まれてくるもので、私たち誰もがそれを感じ取ることができるのだ。

 

 カウンセラーの蒼井さんも元刑事の吉川さんも直感(直観)の重要性を説いた。

今後、脳科学が発展するにつれて勘や直感という機能の謎は解き明かされていくだろう。私たちが想像しているよりも大きなインパクトをもって直感が重視される時代が来るかもしれない。



参考文献等

 

佐々木正悟, 脳は直感している, 祥伝社新書, 2007,p.17. 

 

画像①:佐々木正悟の講師プロフィール カドセミ (studywalker.jp). カドセミ KAODKAWAセミナー. https://studywalker.jp/lecturer/detail/75/.(参照2024‐01-9)

 

画像③:NORTH PRODUCTION INC.,吉川祐二  株式会社ノースプロダクション (north-pro.com), https://www.north-pro.com/talents/%e5%90%89%e5%b7%9d%e7%a5%90%e4%ba%8c, (参照2024‐01-8)

「タオルで首絞めるだけでは死ねないよ」命を軽視する大阪入管医師

8月16日 大阪入管(大阪出入国在留管理局)面会

 

命の軽視

「タオルで首締めるだけでは死ねないよ」

8月10日、大阪入管に収容されているコロンビア人男性のカストロさん(仮名)●歳が自殺未遂を行った際、入管医師が彼に向かって放った一言。

 

大阪入管では今年5月に常勤の医師が酒に酔った状態で被収容者を診察したと各メディアが報じており、これに引き続き入管医師の人権意識の低さが浮き彫りとなった形だ。

医師の泥酔診察の後、大阪入管は医療体制を見直し、新たに4人の医師が就任することとなった。その内訳は、3人が整形外科医、1人が内科・精神科医となっている。カストロさんによると、今回の自殺未遂で診察を担当した整形外科医は「話を聞くだけでメモさえ取らなかった」という。その後、精神的にも身体的にも限界を迎えていたカストロさんに向かって、およそ命と向き合う職種に就く者とは思えない言葉をかけた。

さらに自殺未遂のおよそ7時間後にしてようやくカストロさんの首の記録撮影が行われた。7時間が経過し、首にタオルのあとは残っておらず、カストロさんは「入管はきちんと撮影をして記録を残そうとしたという事実が欲しかっただけ。人の痛みのこと何も考えていない。入管のことだけ考える」と悔しさをにじませた。

 

入管内で感じた孤独と絶望

カストロさんは自殺未遂の理由として「ずっと一人でいるのがつらかった」と証言している。現在およそ50人の外国人が収容されている大阪入管でなぜ孤独を感じる状況が生まれているのか。

 

大阪入管では以下のような構成で被収容者がA・B・C・Dの4つのブロックに分かれて部屋を割り当てられる。

 

        【大阪入管の被収容者のブロックと収容人数】

 

A、Bブロック・・・・男性(それぞれ6人部屋×8+1人部屋×2)

Cブロック・・・・・・女性(6人部屋×8+1人部屋×2)

Dブロック・・・・・・新規収容やコロナ対策などで一時的に隔離が必要な人(1人部屋×50)

 

カストロさんは今年の3月からDブロックの一人部屋に収容されている。ブロック選定の理由は入管側が「車いすだから」としているが、果たしてそれがDブロックの一人部屋に入る正当な理由になりうるのかは疑問が残る。

 

5カ月の間一人部屋に収容され、入管職員以外の人とコミュニケーションを取れるのは今回のように面会の申請があるときだけだという。カストロさんは「人と話したい」という思いから部屋の移動を申請したが、入管側からはBブロック(男性用ブロック)の一人部屋が提示されたという。さらにその場合、与えられる解放時間(部屋の施錠が解かれ、自由に入管内施設へ出られる時間)は11時〜13時30分の間と、他の被収容者の自由時間とは重ならないよう調整されていた。つまり現在のDブロックから希望のBブロックに移動できたとしても人と交流する機会は持てないのだ。カストロさんはこのような処遇に絶望し、タオルで首を締めて自殺を図ったのだった。

 

「魂の殺人」

カストロさんが書いた遺書には入管生活での孤独と苦悩がつづられている。



「おおさかにゅうかんの全てのせきにんです。こんな残酷な非人間的なルールです 私は体に障害があるからさべつと人権侵害などうけています(略)ほかの入出所者一緒にうんどうなどさせてくれない話すこともできません なにゆえ私に孤立させる このなかいるだけとても々つらいとくのうと淋しいです 私としては正に魂の殺人だとしか言い様がないのです」



"未遂"で終わったことで一命をとりとめたカストロさん。「わたしは今助かったが、他の人(被収容者)は死ぬかもしれない」と同じ立場の被収容者たちを案じた。他の収容者に向けて「生きていたらなんでもできる」と考えを述べ、自身について「娘に会いたいから生きる」と希望を語った。最後に会ったのは5歳。現在15歳になった娘の顔を見ることが入管施設の中でカストロさんが生きる目的になっている。



故郷のコロンビアから14357㎞離れた日本の入管で感じる孤独。自分が人間として扱われていないという意識。「私は人間として人と交流したい」というカストロさんの言葉は彼が置かれた入管の現状を訴えている。人の命と向き合うはずの入管は今何と向き合っているのだろうか。



 

家を捨て、娘と二人隣国タイに逃げた。ミャンマー難民

2023年5月12日

 

ミャンマー難民にとって取材を受けることは命がけ

取材が始まるまでに30分の時間を要した。

もともとアポイントメントを取っていた男性の住まいにお伺いしたところ、「取材を受けられない」と言われたのだ。通訳が仮名の使用などプライバシーの保護を条件に取材を受けてくれるよう交渉したが、それは叶わなかった。言語がわからない私は通訳と男性が議論する様子を端から眺めるしかなかったが、男性が頑なに取材を拒む様子が見て取れた。国軍に反対の立場をとる彼にとって、私の取材を受けることはリスクなのだ。現在は隣国タイに逃れているが、安全とは言えない。最悪の場合、取材を受けたことで居場所が判明し、拘束されるかもしれない。またミャンマーに戻った際に軍に追及される可能性も高まる。

このような状況の中で取材に応じて下さったのが男性の近所で娘と二人暮らす女性の避難民だった。

 

クーデター後、家族が離れ離れに

サンサンイェーさん41歳。

国軍によるクーデターの後、夫が拘束され、息子が行方不明となり伯父が殺害された。7歳の娘とともにミャンマーから逃げ出し、現在はタイの辺境で二人ひっそりと暮らす。

 

クーデター後、軍事政権に反対する国民デモが行われた。その際サンサンイェーさんはデモ活動家たちへの食糧支援を行った。米や水、お菓子を配って回ったという。その行為で国軍は彼女を民主派抵抗勢力だとみなし、弾圧の対象としてリストに加えた。そうして彼女は軍の影におびえながら生きるようになった。



ある日、近所で大きな爆発が起こった。駆け付けた軍は周辺住民の9人を拘束。その中にはサンサンイェーさんの夫と伯父が含まれていた。

 

「その爆発が誰によるものかは不明でした。でも国軍は一方的に市民の中に犯人がいると決めつけました」

 

サンサンイェーさんの夫は建築家で、作業用具を所持していた。軍はそれを確認し、彼の技術と道具を用いて爆弾を簡単に作れたはずだと主張。一切の証拠がないにも関わらず爆発物を作れるという可能性だけで夫は捕らえられた。

 

「国軍は何かと理由をつけて私たちを拘束しようとします。例え何もしていなくても」

 

夫は3年の刑期を言い渡された。はじめの一週間で尋問を受け、頭部にはこぶができ、下肢は出血して数日間身動きがとれなくなったという。現在も刑務所に収監されている夫は本当に釈放されるのかわからない。

 

「3年間の有罪なのだけわかる。それだけ。それ以外は何もわからないです。」



夫が拘束された後、サンサンイェーさんと娘は住む場所を追われることになる。ある日突然、軍が自宅に押しかけてきた。ダラン(国軍側のスパイのような存在。市民を装って潜伏し、民主派勢力や市民を監視・密告する)によって、民主派勢力を支援していると軍に密告されたのだ。軍が家まで来たとき、彼女と娘は家を出ており、知人の電話を受けてそのことを知った。

 

「夫は捕らえられましたから、もし自分まで捕まったら、子どもはどうなるのか。だから家には帰らないと決断しました。」

 

その後、サンサンイェーさんの住居は軍によって占拠され、張り紙が貼られた。

「この建物は、民主派抵抗勢力と関わっているため、国有とします。立ち入りや売買を禁じます」と書かれている。

軍による張り紙(サンサンイェーさんのスマートフォンの写真より)


ミャンマーを元に戻してほしい」

住む場所を失い、お金も持たずに娘と逃げ出したサンサンイェーさん。昨年の12月からここ(タイ)で豆を売って生活をしている。

 

サンサンイェーさんが売っている豆



「ここはミャンマーよりは安全と言えます。ミャンマーなら何か起きると軍がすぐに周りの国民を捕まえる。いつでも家の中に入ってくる。その恐れがあります。でも帰りたい」

 

故郷を離れ、夫や息子と別れて娘と二人で生きていくこと。それは身の安全と引き換えに多くのものを失うことであった。

 

ミャンマーを元に戻してほしい。クーデターの前は平和な国でした。また家族と一緒に安全に住める国になってほしい。」



サンサンイェーさんは今年1月に国連に難民申請を行った。国連からの電話では、現在申請者が多いため、一時待機が言い渡された。難民申請から認定には数年を要するケースが多い。彼女と彼女の娘は、今もタイの小さな町で国連からの難民認定の電話を待っている。

 

 

 

ミャンマーを映す:インタビュー

 

 

 

Inevitability;必然性

目次

  •  6/18日「ドキュ・アッタン シアター#難民の日」
  •  組織に所属せず、フリーで活動するということ
  •  きっかけはたいしたあれじゃなかった
  •  倫理の話
  •  情報以上のもの
  •  自由。そして他人の靴を履くということ
  •  必然性

 

 

2023年6月18日、東京東中野4丁目Space&Cafeポレポレ坐。

イベント開始予定時刻18時30分の10分前には会場の受付に行列ができていた。その日開催された「ドキュ・アッタン シアター#難民の日」の参加者たちである。

「Docu Athan(ドキュ・アッタン)」は、2021年2月1日にミャンマーで勃発した軍事クーデターによって民主主義と自由を奪われたジャーナリストや活動者を応援し、ミャンマーの声(=アッタン)を届けるプロジェクト。ミャンマーで拘束された経験を持つジャーナリストの北角裕樹さんとドキュメンタリー作家の久保田徹さんが、ミャンマーの友人たちの苦境に対してできることが何かを考え、仲間と共に立ち上げた。

 この日は国連が制定した世界難民の日(6月20日)を記念し、ミャンマー人ジャーナリストと北角さん、久保田さんの映像作品が上映された。上映後は北角さんや久保田さんが登壇しミャンマーや活動について語るトークタイムも設けられた。

 

登壇した久保田さんは、「ありのまま、彼ら(ミャンマーの友人たち)が生きてる姿を撮ろう」という意識で臨んだと発言した。

 

「その中には必ず悲しみがあるから」

 

イベントに訪れたある大学生はミャンマー人ジャーナリストたちが作った映像作品を観て、彼らが置かれている状況に直面させられたと語った。そして久保田さんの映像を観て、自分にも何かできることはないかと考えた。上映された数々の映像とそれを体感させるイベントは、参加者の胸に重い衝撃と深い共感をもたらした。


写真:登壇する久保田さん(左)と北角さん(奥)

 

 

本稿では、「Docu Athan」立案者の一人であり本イベントの登壇者である、ドキュメンタリー(映像)作家の久保田徹さんに迫る。



久保田徹

 

慶應大学在学中の2014年よりミャンマー少数民族であるロヒンギャの取材を開始し、ドキュメンタリー制作を始める。在学中の代表作品に『Light up Rohingya』がある。2020年『東京リトルネロ』でギャラクシー賞、ATP奨励賞、貧困ジャーナリズム賞を受賞。2022年7月30日、ミャンマーでクーデター抗議デモを取材・撮影中に治安当局によって拘束。およそ3カ月半にわたる勾留を経て同年11月17日に釈放。その後ジャーナリストの北角裕樹氏とともにミャンマーの声を広げる「Docu Athan」を立案。映像を通し、当事者と視聴者をつなぐ活動を続ける。

 

 

組織に所属せず、フリーで活動するということ

 

大学で就職活動をしなかったという久保田さん。卒業後フリーとしてAl Jazeera EnglishやBBC、VICEなどでディレクターやカメラを担当。一度も組織に所属することなく映像畑を歩んできた。現在もNHK World など様々な方面でドキュメンタリーを制作しつつ、自身の制作活動に取り組んでいる。

 

アルジャジーラBBCでカメラを担当することがあったが、それは所属したわけではない。とくに就職活動とかもしたことがないですし、流れでやっていたら偶然今のようになっていったっていう感じで。」

 

基本的には撮影から編集まですべて自分で行う。それは映像制作を自分の裁量で行える自由がある一方、すべての責任を自分一人で負うことを意味している。フリーで活動する久保田さんにとって、「働く」「仕事」といった概念は一般的な会社員のそれとは違う。

 

「会社員の人とは根本的に働くということの考え方が異なっていて、どこからどこまでがその会社の仕事で、どこからどこまでが自分の趣味なのかわからないような感じです。」



きっかけはたいしたあれじゃなかった



最初にミャンマーに関心を持ったきっかけは、たいした理由からではなかったという。

高校在学中、大学のAO入試のために題材を探していた久保田さん。記憶はあいまいだが、偶然授業か教科書で扱ったミャンマー少数民族ロヒンギャ」について調べ始めたとこがこの世界とのファーストコンタクトだったそうだ。その時点では、本気でロヒンギャに関わろうという気持ちはなかったという。

しかし調べていくうちに興味を持つようになり、知ることの喜びを実感するようになっていた。

 

「 やっていくうちにどんどん自分のこれまでの世界がどれだけ狭かったかっていうのを実感できるっていうのは、それ自体が1個の喜びだったと思います。」

 

慶応大学に入学すると、サークルに入った。1年生のとき、活動の一環で日本に住むロヒンギャの人々にインタビューしに行くプロジェクトに参加した。そうしているうちにカメラを回すようになったのだという。ただし、その時点ではまだカメラを仕事にしようなどとは考えていなかった。

そして2、3年生のときに実際にミャンマーに行った。2016年、大学3年だったときのゴールデンウィーク。久保田さんはロヒンギャの人たちが閉じ込められている現地の収容区に行き、ドキュメンタリーを撮った。

 

「そこで想定していた以上のものが撮れてしまったので、これはきちんと制作して編集をして形にしないといけないっていう気持ちはその時点でありました。」

 

それを作品として形にし発表すると、周囲からの評価は想定外のものだった。映像制作をもう少し続けていった方がいいなと思うようになっていった、とカメラを持つようになった経緯を振り返る。

 

「その時点ぐらいからですね、考え始めたのは。それを撮ってしまったからっていう言い方の方が近いんですけど。」

 

 

倫理の話

 

「ここから先は倫理の話になるんですけどね。」

 

と語りはじめた久保田さん。

自分の興味や好奇心で取材をするということについて、そこには倫理が発生するのだと説明した。

 

はじめはロヒンギャについて興味・関心で取り組んでいたと思う、と自身について振り返る。しかしカメラを持ってミャンマー人や少数民族ロヒンギャと関わりを持つ中で、自分の興味関心だけで撮ることに対して疑問を抱くようになっていったという。

「初めは純粋な興味、関心だったと思うし、それで別になんも悪くないと思うんですけど、ただね、ここから先の話は倫理の話になるんですけどね。

やはりカメラを持ったり、人から話を聞いたりしてそれを相手の時間を使ってまた相手の少なからず、人生の中で最も柔らかい部分というか、トラウマとまで行かない場合もあるかもしれないけど、広い意味で言うトラウマを、 要はネタにしていくわけじゃないですか、仕事として。映像の場合はそれがより強烈に出るし。

それを果たして自分の興味関心であったりとか、そういう自己満足、自己実現の道具として使うっていうことは倫理的なのかっていう話になりますよね。だからその時点で大体人は気づくわけです。」

 

これはミャンマーや人権についてあつかう場合に限ったことではないそうだ。例えば日本の伝統芸能の職人をカメラに収める場合も、または誰かの話を聴いてインタビュー記事を書く際も同じように倫理が発生する。カメラに収める、記事に書くという行為は、人からなにかを受け取るということ。それをどのように扱っていくかを受け取った側の作家や記者は考え続けなければならない。

 

「つまり、相手を利用しちゃいけないっていう、ただそれだけのことであって、そこで倫理が発生して、 それはまた使命感とはまたまた別というかね、なんて言うんでしょうね。相手からちゃんと受け取ったものを、じゃあどういう風に使うというか、表現というか、発信するのが正しいのかっていうことに必ず直面することにはなると思います。」




情報以上のもの

 

久保田さんは、自身を映像作家(ドキュメンタリー作家)と呼び、ジャーナリストとは別物と考えている。例えばジャーナリストはスクープを追うことが社会の利益や公共性において重要であったりする。速報やスクープは社会が求める情報形態の一つだ。

しかし情報は速報性とスクープ性にのみ価値が置かれているわけではないと久保田さんは考える。より深く、広い視点から1つの情報を取り上げ理解を深めたり共感を得たりすることもまた情報の役割の一つだ。

 

「ジャーナリストの中にも色々いて、記者の中でも非常に様々な人がいる」と前置きした上で、久保田さん自身はジャーナリストという仕事には向いていないと語る。

 

「スクープを追いかける人には、 その人のやり方や倫理があって、僕自身はそういう仕事にはあまり関心がないし向いているとも思わない。僕はあくまで映像作家なので、もう少し時間をかけて色々情報以上のものを作っていかないといけない。」

 

実際に久保田さんがこれまでに制作した映像でスクープ性や情報として新しさがあるものはほとんどなかったという。例えば久保田さんは2016年に少数民族ロヒンギャの収容区に行きドキュメンタリーを作ったが、ロヒンギャの情報自体はその時点で既に認知されていた。ロヒンギャミャンマー政府に自国の少数民族として認められず、また隣国も彼らを受け入れず、そのため多くの人々が国境地帯に収容され難民として生きることを強いられている状況は世界的に知られていた。日本でも多少は報じられていた。しかしそのような状況を情報としてのみ伝えるのではなく、情報以上のものとして伝えることもできる。

そこに映像で表現することの意味がある、と映像作家という職について考察する。

 

「人間そのものとか、その存在そのものだったりとか、それをできるだけ追体験するようなものを作るっていうのに近いですね。」

 

純化した例として、久保田さんはアフリカで子供が5秒に1人死んでいるという現実について取り上げる。

その情報自体は多くの人が知ってるが、それに対して何かリアリティを持って考えたり、その痛みを感じたりすることなく生きていくことも私たちにはできる。しかしその現実に対して映像を用いて高いリアリティで迫れば、人は情報とはまた違った受け取り方をする。情報を単に情報として消費するのではなく、自分の身体や五感、感情をとおして体験することで視聴者をその現実に直面させるという。

 

「その情報が存在していることのリアリティを避けられないような形で、ある意味直面させるというか、追体験させるようなものを僕は作ることが役割だと考えている。映像は、そういう生理的なものだったりとか、身体的なものだったりとかいう媒体なので、 それを最大限やらないといけないと思っています。」



自由。そして他人の靴を履くということ



「できるだけ自由になりたいので、ドキュメンタリー映像を作っています」

 

Twitterの自己紹介欄の言葉。久保田さんにとって自由とは何なのか。ドキュメンタリー制作と自由の関係とは。

 

「そうですね、自由であるっていうことは1個テーマなのかなと思っていて、自分の中では。 1つ制作を重ねるごとに、1つずつ自由になっていく感覚というのはありまして」

 

ドキュメンタリーを作る中で少しずつ自由になっていくという感覚がある。この感覚をどう説明すべきなのかわからないと前置きをしつつ次のように説明する。

 

「簡単に言うと自分のこれまでの偏見だったりとか考え方だったりとか、かつての自分が壊れて新しい自分を作っていくみたいな作業になってくるんですね。そうすると視野が広がるっていうと簡単な言い方になるけど、それが自由になっていくっていう風に感じる。」

 

これは自身の生まれ育ちとも多少関係があるかもしれないと考察する。久保田さんは小学生のころから私立の学校に通っていた。同質な環境の中で育ち、息苦しさを感じてきた。周りにも似たような人間しかいない温室で育つと、そのうちその状況が息苦しいのかどうかすらわからなくなった、と当時を振り返る。

しかし、世界がそれほど狭くはないということはどこかで感じていたという。そんな中で映像と出会う。そして1つずつ自分が自由になっていく、あるいは自分が少しずつ良い存在になっていく感覚に導かれた。

 

ドキュメンタリー制作の過程で人にカメラを向けることで、またその中で人と向き合うことで、その人の視点や感覚、世界を知り、共感あるいは共鳴する。それによって例えば持っていた偏見やかつての自分が破壊され、新たに生まれ変わることで少しずつ変化していく。自由とはそういうプロセスのこと。



「誰かの目になろうという作業であると思うんですよ。ものによるかもしれないけど、その人 から見た世界とかっていうのは、どういう風に見えるか、どういう風に描けるかっていうことを考えるので。そうするとその他者の視点、 英語で言うと他人の靴を履くっていう言い方をするんですけど、”empathy”ですね。共感っていうのは、他人の靴を履こうとする作業、履く作業だと。誰かの目線に立つ、立ってものを考えるという作業なんで。ドキュメンタリーはそれを繰り返していくわけで。そうすると、他者の視点だったりとかがインストールされるわけです。ある程度は。

そうすると、自分の中にいくつもの人格ができていって、それがまた統合されていくような 繰り返しなので、そうするごとに自由になっていくような気はしている。」



必然性

 

 

ミャンマーで日本人が拘束|ARAB NEWS

 

 

2022年7月30日、ミャンマーでクーデター抗議デモを撮影中に治安当局によって拘束された久保田さん。およそ3カ月半にわたる勾留を経験した。

釈放後開かれた記者会見で「今後(活動を)どうしていくのか」という質問に対して久保田さんは次のように回答した。「映像制作についてはもちろん続けていくつもりですし、何かこう、自分の映像を活用して支援が行く届くような形を作りたいなとおもっています。」

 

元々危険地帯で貴重な取材をするというスタンスで活動したいたわけではないと語る久保田さん。2m×5mの牢獄に閉じ込められ、絶望と向かい合う日々を経験したあともミャンマーを撮り続けるのには理由があった。それは使命感とは異なる別の感覚からであるという。



「そういうのも必然性をどこまで感じるかっていうところで考えてしまっていて。元から別に危険な地方に行って貴重な取材をするというスタンスで やっていたことはないんですよね。ジャーナリストみたいなのとは全く雰囲気が違いまして。ことミャンマーに関しては、自分にとっては友人たちでもある話であって、それに対して、自分が撮るべきだなって思ったっていうのが1番なんですよね。うん、まあ、使命感っていう言葉にしちゃうと、なかなかあれなんですけど。必然性ですね。

だから、自分にしか撮れないものを撮らないとやはりやる意味がないなとも思うし。ただそれだけかもしれないですね。」

 

必然性。久保田さんがミャンマーを撮るのはすべて必然なのかもしれない。

息苦しさを感じていた幼少期。高校の授業で聞い少数民族の話。大学時代に入ったサークル。映像との出会い。ミャンマーで撮れたもの。そして人との出会い。

まるで導かれるように久保田さんはミャンマーに立ち続けるのかもしれない。それは危険を顧みずに命を懸け世界の平和を守るヒーローとは少し違うのかもしれない。しかし確かなことは、久保田さんにしか撮れない映像があり、映せない人々がいる。久保田さんだけが撮るべきして撮る世界がある。

 

「簡単に言うとやはり自分にしか撮れないものを、撮るべきだと思った。 

どんなものであれ自分にしか撮れないものってのは、絶対にあるから。」

 

 

 

参考資料

https://www.docuathan.com/

ミャンマーで日本人が拘束|ARAB NEWS

 

筆者:古波津優育