家を捨て、娘と二人隣国タイに逃げた。ミャンマー難民

2023年5月12日

 

ミャンマー難民にとって取材を受けることは命がけ

取材が始まるまでに30分の時間を要した。

もともとアポイントメントを取っていた男性の住まいにお伺いしたところ、「取材を受けられない」と言われたのだ。通訳が仮名の使用などプライバシーの保護を条件に取材を受けてくれるよう交渉したが、それは叶わなかった。言語がわからない私は通訳と男性が議論する様子を端から眺めるしかなかったが、男性が頑なに取材を拒む様子が見て取れた。国軍に反対の立場をとる彼にとって、私の取材を受けることはリスクなのだ。現在は隣国タイに逃れているが、安全とは言えない。最悪の場合、取材を受けたことで居場所が判明し、拘束されるかもしれない。またミャンマーに戻った際に軍に追及される可能性も高まる。

このような状況の中で取材に応じて下さったのが男性の近所で娘と二人暮らす女性の避難民だった。

 

クーデター後、家族が離れ離れに

サンサンイェーさん41歳。

国軍によるクーデターの後、夫が拘束され、息子が行方不明となり伯父が殺害された。7歳の娘とともにミャンマーから逃げ出し、現在はタイの辺境で二人ひっそりと暮らす。

 

クーデター後、軍事政権に反対する国民デモが行われた。その際サンサンイェーさんはデモ活動家たちへの食糧支援を行った。米や水、お菓子を配って回ったという。その行為で国軍は彼女を民主派抵抗勢力だとみなし、弾圧の対象としてリストに加えた。そうして彼女は軍の影におびえながら生きるようになった。



ある日、近所で大きな爆発が起こった。駆け付けた軍は周辺住民の9人を拘束。その中にはサンサンイェーさんの夫と伯父が含まれていた。

 

「その爆発が誰によるものかは不明でした。でも国軍は一方的に市民の中に犯人がいると決めつけました」

 

サンサンイェーさんの夫は建築家で、作業用具を所持していた。軍はそれを確認し、彼の技術と道具を用いて爆弾を簡単に作れたはずだと主張。一切の証拠がないにも関わらず爆発物を作れるという可能性だけで夫は捕らえられた。

 

「国軍は何かと理由をつけて私たちを拘束しようとします。例え何もしていなくても」

 

夫は3年の刑期を言い渡された。はじめの一週間で尋問を受け、頭部にはこぶができ、下肢は出血して数日間身動きがとれなくなったという。現在も刑務所に収監されている夫は本当に釈放されるのかわからない。

 

「3年間の有罪なのだけわかる。それだけ。それ以外は何もわからないです。」



夫が拘束された後、サンサンイェーさんと娘は住む場所を追われることになる。ある日突然、軍が自宅に押しかけてきた。ダラン(国軍側のスパイのような存在。市民を装って潜伏し、民主派勢力や市民を監視・密告する)によって、民主派勢力を支援していると軍に密告されたのだ。軍が家まで来たとき、彼女と娘は家を出ており、知人の電話を受けてそのことを知った。

 

「夫は捕らえられましたから、もし自分まで捕まったら、子どもはどうなるのか。だから家には帰らないと決断しました。」

 

その後、サンサンイェーさんの住居は軍によって占拠され、張り紙が貼られた。

「この建物は、民主派抵抗勢力と関わっているため、国有とします。立ち入りや売買を禁じます」と書かれている。

軍による張り紙(サンサンイェーさんのスマートフォンの写真より)


ミャンマーを元に戻してほしい」

住む場所を失い、お金も持たずに娘と逃げ出したサンサンイェーさん。昨年の12月からここ(タイ)で豆を売って生活をしている。

 

サンサンイェーさんが売っている豆



「ここはミャンマーよりは安全と言えます。ミャンマーなら何か起きると軍がすぐに周りの国民を捕まえる。いつでも家の中に入ってくる。その恐れがあります。でも帰りたい」

 

故郷を離れ、夫や息子と別れて娘と二人で生きていくこと。それは身の安全と引き換えに多くのものを失うことであった。

 

ミャンマーを元に戻してほしい。クーデターの前は平和な国でした。また家族と一緒に安全に住める国になってほしい。」



サンサンイェーさんは今年1月に国連に難民申請を行った。国連からの電話では、現在申請者が多いため、一時待機が言い渡された。難民申請から認定には数年を要するケースが多い。彼女と彼女の娘は、今もタイの小さな町で国連からの難民認定の電話を待っている。